ジブリ飯が美味そうな理由

絶望と寄り添いながら絵を描くということ
秒ナビ(RC1)ジブリの料理がうまそうな件
ラノ漫 ジブリの料理がうまそうな件
ジブリの料理
魔女の宅急便のニシンパイを作ろう




だいたい宮崎駿と言えば、周知の如くアルプスのハイジのチーズ乗せパンからして美味そうな訳である。従ってこれは今に始まった訳ではなくて、過去極めて長い間ジブリ飯が美味そうだった事は言うまでもない。


ラノ漫さんのブログでは鈴木さんの談話として「宮さんは貧しい弁当しか食べてない。年1回だけ例外w」のようなものを出しているということだが、まず純粋に、本当に、それだけであれば決してあのような食事シーンは書けないだろう。第一不可能である。蕎麦も食えば、イタ飯も食う・・筈であるところは通常の人の変わりあるまい。ただ食道楽で食い歩いていれば美味しい画像が描けるのか?と言うならば、そうではない、という趣旨のようにも取れる。ハッキリと言えば、鈴木さんは笑ってカマしていると推測される。


昨今老齢のため痩せている宮崎駿氏だが、ついぞ最近まで十分小太りだった。小さく粗末な弁当箱の中身を二つに割って、片方は昼、片方は夜・・これを毎日のように持続してあんなに太るか?という疑問すら湧くw。ラノ漫さんの記事に同意しながらも、付加を言うならば、やはり状況から言って「飽く迄も話は話」として捕らえ、ジブリ飯の作者はやはり普通の食生活だったと仮定する方がベターである。



弁当については確かに弁当持参の人らしいのだけれども、言うなれば「弁当だけ」なんではなくて「弁当に加えていろいろ食う」のではないかw




宮崎アニメのようなメシを描くという事の意味、ジブリ飯はおいしそうという事の意味は、他にある。



その原点は「食い物が無くて、食い物を食えない」という強力な思考である。食い物が無くて・・という意味は、「弁当を毎日食ってるから俺にはイタ飯が無い」とか「僕の好みでは美味いと思えるものがあまり無いから食い物が無いと言える」「ウチの近所にはパッと外見からして旨そうな食い物を食わせる店がないから、ウチの近所には食い物があまりないと思われる」などではなくて、



社会的に食料難、または、貧困社会なので食い物が食えない、したがって、ベーシカリーに危険な状態である・・という意味だ。



食べ物を豊富に食えるということのありがたさ、その時に食べ物がどう見えるか、そういう基盤的感性がジブリ飯であれば、イタ飯であろうと、アルザスメシであろうと、肉マンであろうと、カテゴリを問わず今後もジブリメシはジブリ飯であり続けるに困難は無いだろう。



背景には貧困、幸せや人生の崩壊、貧困から来る死、があるという事が、ジブリ飯の美味そうさ加減だと思える。特筆すべきは、貧困・幸せや人生の崩壊・貧困から来る死、というものが、必ずしも大人に訪れるとは限らないという点である。



いたいけな子供や老人、若い女性、そういう弱者が状況から生命や人生を奪われる等の状況に置かれたとする・・その時に普通なら何でもないような食い物がどれほど有り難いものであるか?という、このような人生観が食い物をして美味そうたらしめている訳である。



例えばそういう観点を持たない人間に対して、しつこくしつこくこの貧困と死の思想を強制すれば、その内にはその人間もメンタルトレーニングの結果いささか美味そうなメシが描けるようになるかもしれないと思えるが、しかし、実際にはこのような思想を持たない絵描きが実に多い事も当然あるだろう事が、さらにジブリ飯という一種の才能を際立たせているとも言えるだろう。




例えば宮崎駿のような人生経験のない若手の描き手が「じゃあ俺もそういうのを描いてみよう」と思い立ったとすると、おそらくはこうやる。



飢餓状態に置かれた青年がいた。その青年が砂漠を長期間歩いてきた。そしてその青年はオアシスを見つけた。オアシスの居住区に入ったら、かわいそうに思った住民が粥のメシを青年に与えた。青年はその粥のメシを食べた。・・・という話を彼は思いつく。そしてこう描く。



長身痩身のスタイルの良い長髪の八頭身君が、かっこいい衣服かまたはジプシースタイルであっても格好の良い姿と言える風貌で、長い足で歩いてくる・・・
「うう・・腹へったぜ・・」てなもんである。


そして黙って泥作りの外壁にもたれて座り込む。うつむいて「うう・・」そこへ通りがかった人が差し出す椀の映像。差し出された椀に気付く青年。「ほれ・・これ食え・・」「・・・・あ・・、すまん・・」と受け取る青年。


黙って、ずずっと粥をすする青年「これで少しは腹の減りがおさまったぜ・・」・・とくる。長髪の奥の美々しい目がキラリと光る。




これは自分を主人公に投影して、しかも格好付けて描いているだけの単なる自己に限定された理念の主張に過ぎない。



実際に男性が飢えて困っている時に食い物を与えた場合に、上記の映像は実に多いパターンであり、結果的にはリアリティの塊であるかもしれない。普通感動した顔を見せたり、云々するより、まずは一言礼を言って黙って食うだろう。そうなれば、これこそ凡庸でマジョリティの姿であるかもしれない。んがしかし・・



んがしかし・・結局それだけでは、人を説得することは出来ない。社会がどうで、貧困が実際当事者の人間にどんな感情を巻き起こし、それは一体社会としてどういう状況と言え、どう考えるべきか?を描いてはいない訳である。そこがジブリ飯との違いである。



こうなってくると、うまそうなメシとはイタメシなのか、焼そばなのか、焼きたてのパンなのか、を考えて、それをデフォルメして画面上に展開し、コマ割や画面構成、タイミングを熟慮する事自体が徒労に終わることとなってしまう可能性がある。



とは言え、20代や30代の者に宮崎駿と同じ人生観を展開しろという方が、どだい無謀な要求と思われますなw。
ジブリ飯は難しい・・と言わざるを得ますまい。