本能寺の変は・・・



誰しもこれだけは分からないってのが、本能寺の変を起こした理由だよねw。僕もわからない・・・だけど本能寺の変の真相は興味あるんで・・・このページで自分なりに考えておこう。。。というわけで、このページは編集中扱いになるよ・・・




やっぱり読んでて一番面白いのは、以下のURLだよ

google検索 明智憲三郎

しばやんの日記・本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか

しばやんの日記・本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか

しばやんの日記・明智光秀は何故信長を裏切ったのか

しばやんの日記・家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か

しばやんの日記・秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か

本当に明智憲三郎さんの所見はすんばらしいですなw。感動物ですよ。特に本能寺の変の時の筒井軍の動きなんかはハッとさせられるものがある。なんっても大スペクタクルの陰謀で読んでるだけでも楽しいし、かと言って、この大スペクタクルみたいなのが世の中っつーもんだって言われれば、素直にそうだなあと同意できるところがまたミソ。神君伊賀越えの段取りが手回し良すぎる、っていう点も、鋭いなあ・・って感じなのだよ・・・

ある意味、明智憲三郎さんと、しばやんの日記さんに反論する方法が・・・なんと!無いように思うのですさ。それほどに面白いw。

この最高の説だと、ほとんど重臣達が語り合って信長を寄ってたかってなぶりごろしてるかの如きw気にもなってしまう所もあって、北条家と源頼朝家の経緯みたいに、むしろリアリティがあるんだよね〜

この完璧な明智憲三郎さんの説か、むしろ、ベタな明智光秀単独犯説か、どっちかじゃない?・・・・みたいなw。

明智さんやしばやんの日記さんの説の逆に、ベタな従来の古典的w通説ではどうなのか?・・・を以下にちょっとゼロから検討してみよう・・・・

つうのはさw

明智さんや、しばやんの日記さんの説を順を追って検証して反論するっていうようなのは嫌なんだよねw。あれは優れた説だからねw。

むしろ、もっと無知で良いから、ゼロからやってみようww








・・・まず、かじゅうじ・はれとよの日々記の6月17日記だよねえ・・・これだけ明記されると、朝廷陰謀説を採用せざるを得ないかなあ・・・なかなかノリで、ウソ書きましたじゃ出てこない一言だよねw「彼は信長を討ち果たす為の<談合>のメンバーだ」とはね。

とは言っても、朝廷陰謀説だけだとやっぱり軍事的勝算の見積もりがおかしすぎるよね。

朝廷には命令強権はないしさ・・・。光秀が話に乗っただけなら単独犯と変わらないよね。乗せられてその気になっただけ。

信長を謀殺して近畿濃尾その他の大名に対して、光秀単独で、部下になるよう呼びかけるつもりだったのだろうか・・・それでOKと、光秀が判断していた筈もないような気がwするよねw

・・・本能寺の変の後、昔からの同僚の長岡藤孝にラブコール3回。振られまくってるw。なんつーか他に武将友達がいたとも思いがたくw

友達いないとは言え、それでも友達が怪しいかなあ・・・
・・・と僕もそう思うんだよね・・・

本城惣右衛門覚書を順手に取って家康陰謀説ってのがなあ・・・気になるかなあ・・・

家康が、んな事するかねえ・・・しかし家康って豊臣秀吉の息子も殺してるんだよなあ・・・欲にかまけた豊臣恩顧武将を、友達になってノセちゃって関が原も勝ったしなあ・・・斉藤利三の娘の春日の局をトップのポジションに登用したのも家康だしなあ・・・・・・

本城惣右衛門って言えばさ・・・どうして彼らが本能寺に向かって進軍してる間に「どうやら俺達は家康を殺すために現在京都へ向けて移動してるらしい・・・」と思ったのか?、だよね。

「京近辺にいる敵になり得る者(信長の直接家臣でない大名)は家康だけだから」単純にそう思ったのか・・・・・それとも、「信長の北条攻めにおいて家康は邪魔者だという噂が織田家中で大勢を占めていたから」早手を打って殺そうとしてる・・・・と自然に予想したのか・・・・

それとも、やつらヒラザムライは、いつもこんな調子だったのかw。根拠なくても、あれこれと噂したり憶測したりしてただけなのかw

「本能寺」っていう上洛初期から信長が宿所にしていた寺の存在も知らず、今夜そこに居るのが信長だって事も知らず、結局内緒にされたまま攻撃に借り出された男・本城惣右衛門www。

何のための戦か、誰と戦ってるのか、全然知らないのに、コロすコロす・・・w。軽いノリで首を切り落とす切り落とす・・・w。こりゃいったいw。

本城惣右衛門らの下級武士がさ、もし信長から直接「馬鹿者!ワシは信長である!、お前らの指揮官明智光秀は単なる謀反人ぞ!。ワシの言う事を聞かば恩賞は放題だ。ものども、光秀に攻めかかれ!」なんて言われたらさ、反転して光秀に攻め係りかねないでしょう・・・・過去信長は柴田軍を相手に同じ事をして、成功しているよ・・・

いずれにしても・・・一方の考え方を言えばさw

家康が信長から駿河を貰ってさ、貰ったとたん返す刀で信長を殺す?、やけにスピード決済すぎるよねw。

貰った瞬間すぐにのこのこ近江までトコトコきてさ、逆に即座に信長殺害とw・・・・イタリアンマフィアな話だねw。んなスピード決済する男じゃないっしょw。根回しに根回し・石橋叩いてってとこだろうなあ・・・

光秀と家康が安土で対面したわけなんだけど・・・・・・・・その時に光秀が密室で家康相手に計画を吐露してさ・・・・・・・・慎重な家康がその場で応諾しますかね?。ワナかもしんないわけじゃんかw。光秀のは演技。信長による忠誠心を試すワナだと。安土城内に家康と光秀が密談できる場所なんて無いでしょう〜

逆にワナじゃなくて本音で・・・・・・もし家康がその場で光秀に共謀を誓わず聞き置いたに留めりゃさ・・・・・光秀としてはビビる訳じゃん。家康から信長に急使が飛ぶw。光秀にしてみりゃその場で家康を切り捨てて殺害でもしないとさw。

ハードルめちゃくちゃ高いよね・・・共謀成立って。

一説によると・・・

「信長が100人ぽっちの侍に守備させてただけの状態で本能寺で酒飲んで遊んでた。油断しすぎてる。これはおかしい!。光秀の1万の軍勢には堺で観光してる家康を攻め殺す指令をしていたからこそ油断していたんだ!」っていう説は最高にリアリティはあるんだけど、ここはw、その逆説でw

「家康も30数人は少なすぎる。あやしい。信長と家康で、油断させっこやってたに違いない」っていう卓抜な説なわけですなw、敢えてその逆説、ベタベタの通説・単独説から入りましょうw

・・・・・その家康だってさ、浜松城から安土、堺まで数十人の普段着の供を連れただけでさ、テクテクのこのこ、やってきたんだから、信長よりももっと油断してるよね。この時期の信長領は油断出来るだけの安全な環境だったとしか思えない・・・・・っていうのが、今回の逆説なんですがw・・・・

ただ信長的にはここ数年よく領内を鷹狩してるんだよねw。吉良まで行ったり、どこ行ったり。これも100人程度の供だったりしたかも・・・と思えば、信長と家康の供の人数も、有り得ない話でもないようにも思えますなw

信長はさ・・・武田征伐の前からずっと、前線司令官は辞めちゃってるんだよね・・伊賀攻めでもさ、1国の征伐だっていうのに信長は出陣もせず、征服した後で「見学」だけしに行ってさw、もてなされて酒飲んだだけなんだよねw

じゃあ、何やってたかって言えばさ・・・ひたすら鷹狩やってお狂いやって遊んでるんだよ・・・何年も。その年中、戦にも出ないでやってた鷹狩だってさ、少人数だった時も多かったかもしれないんだ・・・少人数だったり、戦にも出ないで遊んでばっかりで年中過ごしていたり・・・・これが敵国に対する信長によるパフォーマンスだったようにも見えるんだ・・・

て事は、少人数っていう事自体、不思議でなかったかもしれないよね・・・



家康と光秀が前々から信長謀殺の談合してたとして・・・・
・・・そう仮定した場合、

たまたま家康が安土に丸腰で来ててさ、そこに光秀がたまたま居合わせ、二人して、チャンス到来!今からやるぞっつってたとしてもさ・・・・・・

そもそも・・・・・兵100人ぽっちの守備で寺で酔って寝てる信長の隣に、光秀1万人の軍だけがフリーでいるって環境なんていう巡り合わせはさ、家康と光秀には事前に予想計画できなかった筈だし。なんっつっても秀吉の要請で信長は本能寺に泊まる事になったんだし・・・・・急遽実行って流れだよね・・・・その場合

急遽実行ってのも、これだけの大規模な謀殺だと、計画遂行ハードル高い・・・

安土城で光秀が「信長の毛利戦出馬のスケジュール」と「光秀に対する毛利戦出陣命令」を、信長から聞いたとする。

別室でメシ食ってる小太りの家康んとこに、光秀がテケテケって行ってさw、「・・・前々から談合の事、斯く斯くのスケジュールと聞いたので、これから実行します!」っつってさw、伝えたとする。

家康が「そうなのかw、んでは僕は堺に見物に行きま〜すwww」って返事したんならw、それっつーのは歴史に残るよねwww。変な歴史として。家康に当事者意識が無さ過ぎるww。

家康堺見物の予定自体、信長が言い出した事。命令同然。光秀は暗殺失敗するかもしんない。とりあえず信長はんの命令通り堺へ行きますとww。だから光秀さん、あんたは一人で謀反をとりあえずやっといてちょーだいwwwと。

基本的に共同謀反なんてのは、お互い抜き差しならないような立場でやらないと、すぐ片方がばっくれて、もう片方は殺されちまったりするわけですよ。。。。

共謀成立させるのも本当ハードル高いよ・・・

・・・・・・・・もっと真剣に語り合ってたとすると・・・

光秀曰く「家康殿・・我が軍一万を以って貴殿を堺で謀殺すべしとの信長様からの命令が出ておりますぞ」
家康曰く「むむむ・・・(汗)」
光秀曰く「わしは、前々から貴殿に打ち明けていた通り、このチャンスに、このまま信長と戦いまする。貴殿が信長様によって殺される前に、わしが信長を殺しましょう。貴殿は一旦堺へ赴き、なんとか三河へ帰ってくだされ。無事帰れたなら、わしを助ける軍勢を出してくだされ。貴殿の無事を祈るばかりでござる」
家康曰く「なんと!(汗)分かりました。そのようにいたしましょう(決意)」

なんつって言ってさ・・・・

・・・・・・・・家康は発言一発でそれを信じて行動したりしないだろうけど・・・・・・・過去、桶狭間の合戦で義元が死んでるのにそれを信用せず、大高城でネバったぐらいだからさ

・・・信長の家でそんな会話をして、通報もしないでいたのがバレたら、家康がその場で信長に殺されちゃうもんなw。これは怖いぞ。

光秀が援軍欲しさにデマカセ言ってるのかもしれないとも疑うだろうし・・・

そもそも、光秀の当初からの信長暗殺の相談から始まって、今この瞬間の会話に至るまで、全てが、信長によって仕掛けられた罠かもしんないと疑って当然な訳です・・・・

こんなのは騙しあいの世界と、信長に事前にバレる事を恐れる世界があるだけですよw。こんな疑心暗鬼に耐えてまで共謀する価値はあるのかw

・・・・でも仮に、もし光秀の言い分を家康が信じたとして・・・

光秀が首尾よく信長を殺した後・・・・・・・・家康が数十日遅れて、軍勢を連れて上洛して、光秀軍と合流できたとしてもさ・・・・・・・羽柴軍も、柴田軍も、信孝軍も、信雄軍も、果ては上杉軍も毛利軍も、あろう事か北条軍までも(家康の東側隣国)が、無傷で家康周辺をウロウロしてるってのが、家康には分かりきってるわけですよw。

んな軍略立てて、天下の強兵を全部敵に回して、一族の命運を乗っけて、信長に事前にバレるリスク負ってさ・・・それほど家康も馬鹿じゃないですさw

光秀が京洛で、羽柴軍や柴田軍や信雄軍や信孝軍と戦ってるって訳で、家康軍が援軍として上洛。家康と光秀は一緒に、織田家中での悪者になって京都安土で戦うと。「これぞ好機!」と北条が羽柴や柴田や信雄と同盟したらどうすんだwと。北条が駿河遠江三河になだれ込むw

むしろ家康って男はさ・・・・

とりあえず逃げる。か、それが駄目なら死ぬ覚悟を決めそうですよね。でなきゃ・・・

毛利戦・四国戦・北条攻めで命がけで信長に貢献した上でさ・・・・・・・・領土の大半を信長に返上して良い子になって、信長からこれぞ鏡よと褒められて家をまっとうしようとする男ですよw。家康っつー男は。

勝頼に遠江を差し上げて、自分は岡崎城主程度に縮小して、武田に寝返って助かるかどうか悩んだ経歴がある男なんだからさww(いやwこれはいろんな人の推理の話ですが)

そういう凡庸だけど慎重で粘り強い戦略しか出来ないんだって。家康はw。

・・・・それに光秀が信長を殺した後、

光秀は、近畿濃尾の侍大将に、味方になるよう手紙を出しまくったんだけど。その時「家康殿もお味方である!だから俺の部下になれ!」って、手紙に書きますよねw。光秀としては。普通。存亡が掛かってるんだから。

でもそんな文書は発給されなかった。ところで、

・・・・・堺から三河に逃げ帰る途中で家康から別行動した旧武田家臣の穴山信君だけが旅の途中で農民?に殺されたっていうけど・・・・・・・・

あれは単に家康達が殺しただけでしょうw。穴山氏は、駿河と、甲斐府中の中間地帯一帯の大領主。さらに信長がその本領を今回、安堵したってわけ。

信長死亡の報告を受けて家康が堺で重臣達と急遽軍議した・・・・・・・・・家康の重臣は「三河に帰還出来たあかつきには、取り急ぎ甲斐信濃を奪い取らなければなりませぬ。織田家中の事は織田家中の事、我らがでしゃばったとて、痛い目に会うだけでございましょう。ゆえに、甲斐信濃へ軍を出す事こそが急務でござります。・・・・・・その為には、甲斐の手前、駿河の北側の穴山領を速やかに接収せねばなりません。ゆえに穴山殿にはどうしても、今ここで死んで頂く必要がございましょう」・・・と言ったとw。・・・・それで家康は「やむをえん・・・さればそういたそう」とか言ってだねw、・・・・・で、帰りの旅の途中で穴山信君を殺害しただけでしょうな。

って事は、三河に帰り着いてから光秀の為に軍を出して、京洛でその他の百戦錬磨の羽柴や柴田や信孝や信雄と存亡を賭けて戦うなんて予定はサラサラ無かったって事ですよw。

穴山信君を殺したって事は、「三河に帰ったら急いで北方の甲斐信濃に乱入せねば」って事だけ考えてたと。

・・・・一応、家康が三河に無事生還した直後、

先手酒井忠次が西に進んで尾張熱田神宮まで出兵したってのは、中央の巨大な織田勢力がどうなるか分かんないから面目上、評判を保つ必要上・・・形ばかり進軍はしておいた・・・・・・・だけでしょうw。で、光秀敗死の報を受けて、さっさと甲斐信濃乱入作戦に戻ったとw。

・・・・・・・・・・だいたいそもそも・・・・・・信長が林や佐久間や安東ら股肱の重臣を突然処分したっつてもさ、正式な手続きを踏んでるし、処分するまで何十年も?待っての上の事。家康に駿河を与えて、与えた直後に殺害するような事を、信長はやりませんさw。そんな事してたら、信長家臣団のみんなが疑心暗鬼になっちってさ・・・・・・自分の組織が麻のように乱れてしまうじゃないですかw。

恩賞貰ったが最後もう終わりw・・みたいな。

後日の秀吉のようにさ、為政者としての不適格を理由に、呼び出して腹きらせりゃ、徳川家中も、その他の大名も納得するよねw。頂点の大将が目下を暗殺ってのは、追い込まれてる時以外に、常套手段でやってるとさ・・・問題出てくるよね・・・

・・・ま、信長の事ですからw、そのあたりは乱脈だったりするかもですしw。確かに、尾張下四郡統一戦の頃の信長は、騙して暗殺、内緒で暗殺、ばっかりですがねw

そのあたり、明智憲三郎説は説得力あるんだよねw

・・・・他に・・・

本能寺の変の当日、筒井順慶軍が奈良から京へ向けて進軍していたけど、「信長様は毛利戦出馬の為、急遽安土城へ戻られたと聞いたので」せっかく進軍させてた全軍をまわれ右して、途中で引返して帰宅してしまったww・・・・という件なんだけどさ・・・・これもさ、筒井の抱えるスッパが「どうやら本能寺で明智軍が騒擾して信長様を殺し奉った模様!」などと順慶に報告してさ・・・・・「疑われても何なんでw、京へ入ったりせず、引返そうぜw」等言ってだねw・・・・その後のと同じくwさっそくいつもの「洞ヶ峠」を演じただけなんじゃないかw・・・・・・・という逆説がですね・・・・ありますなw



・・・あと

信長にとって、この時点ではまだ家康は使える男なわけです。信長が中国征伐、四国征伐九州征伐をして、西日本全域を焼け野原にしてる間に・・・・・・あの豊臣秀吉が20万の軍勢を使って落とした小田原城の北条家のお相手を、家康がしておいてくれるんですからw。

そのための駿河領でしょうね・・・建前的にも

東は山梨県から西は鹿児島までの、全部の大大名を殺して焼け野原にして、全域を純粋な織田領にしておいてから・・・・・・さて関東は?って見ればさ、家康が勝ちもせず負けもせず、忠実に北条を監視しておいてくれるとw。

滝川一益森長可はむしろ上杉の押さえみたいな・・・

駿河遠江三河の3ヶ国なんて、山梨県から鹿児島までを完全に領する信長にしてみりゃ、猫の額みたいな狭い領土ですさ。惜しくないw。全国を焼け野原にした後、家康をどこへでも転封させりゃ住む話だろうから・・・・・・何も焦って、んな信長家臣団を混乱と恐怖に叩き落すような不信を招く暗殺劇をするこたぁないですよねw。

家康は今回も恭順の意を示そうと、現に動かざることとして、30数名の非武装重臣だけの供で、テクテク安土城にお参りしてる。信長が征夷大将軍や太閤なんて位に就こうもんならさ「為政者の器にあらず。家康に切腹を命ずる」の一言でさ、ひ弱い家康の息子が当主に繰り上がって、その後は徳川家は怖くないわけですよw。

さらに、家康は表沙汰だって信長に刃向かう度胸ないですしw。・・・・まぁ本当暗殺ぐらいだよね・・・だからこその家康黒幕説なんだろうけど・・・

まぁ、その後の徳川家の事跡を見れば、徳川家っていうのは暗殺ばっかりなんですよw。主に毒殺。家康も自分の実の息子達を何人も整理整頓のため毒殺してますよね・・・。徳川吉宗の時代になっても、長男から3男まで全部毒殺とかさ。

多分家康以前から徳川家っていう組織の運営DNAなんじゃないかなあ・・・・・領主を「暗殺」する事が常套手段っていうのはねw

だからそういう意味でも、暗殺という水面下の攻防っていう明智憲三郎説っていうのは、非常にリアリティがあるんですよね〜

僕の印象では、家康が30数名の非武装重臣だけを連れて、安土城に登城したっていうのはさ、当時、名実供に家康が信長に無条件降伏した印でしょう。臣従っていうかさ。少なくとも、そういう建前を以って、実際に、非武装30人のみで、公に、浜松市から安土城へと旅してきたと。

・・・・・・いずれにせよ、家康暗殺計画→信長謀殺っていう非常に卓越な見解については「信長がこの時点で家康を暗殺せねばならない動機」「信長がその頃家臣級の大名を暗殺するような方針だったどうか」などなど、そういう点が残るかもしれないけどね・・・・・どうなんだろう・・・・


とりあえず、ここではw、状況的には家康不関与ではw・・って事でw

という訳で、じゃあ、結局家康黒幕説もいまいち・・・




秀吉黒幕説ってのあるけどもさ・・・こいつにも、疑問が沸くw

もし秀吉が裏切って山崎に攻め出てきたら、普通光秀側としちゃ歯噛みしちゃいますぜw。光秀重臣斉藤利三は山崎合戦後に京の市中引き回しなんてのんびり処罰されてるし、そのプロセスの中でもっと騒ぐよw。くやしい裏切られたって。

それを聞いた侍はいろんな日記に付けるだろうし、柴田や徳川も放って置かないってw。小牧の合戦の時なんざ、家康は「それ秀吉は野人の子」など書いた紙を各所に張り出してるんだし。どっかで表に出るんじゃないかなw?真犯人秀吉っていう文言。

中国大返しが素早すぎるので計算が合わないっていう重要なポイントも、明智憲三郎説には敬意と賛同を示しながらも、ここではその逆説をw。

やっぱりそりゃ、みなさんおっしゃるようにw、実際には記録よりも1日早く和議をまとめて、戦場離脱してるんですよw。僕もそう思うw。

で、秀吉が記録をマトメた時にさ、あんまり早く和議まとめたって書いたらさ、「太閤は毛利と裏でつながってたんじゃねーか?」とか、「べんべんと馴れ合いの合戦してダベってたから、んなに早く和議れただけなんじゃね?」とか、その他憶測されるのを警戒してさw。

「じゃついでに、中国大返しってコンセプトで、神速の機動力って英雄にしちゃおうぜw」とかとかww、

そうやって歴史書を編纂しただけ・・・という・・・バカらしさ・・・・

・・・という逆説ですなw・・・いちおう・・・



天海=光秀説もなあ・・・飛びすぎだよなあ・・・なんとなくそう思うよw。

義昭黒幕説はw、別にそうであってもらっても、そうでなくっても、全然問題ありませんなw。まぁ・・・あいつはいつだって意味も無く黒幕なんですよw。






不安説や怨恨説ってさ、ルイス・フロイスが又聞きしたんだろうけど、そのソースのでどころがいまいち不明なんだよね。。。。

信頼出来るソースからの取材なのか、それとも、単なる街の伝聞なのか。。。。。。。利害関係なきフロイスの記述は信頼性が高いような気も。フロイスは忠実に書いた。では誰からどうやって聞いたのか・・・・

・・・キリスト教信者の有力武将から、だと有望かもしんない。
・・・キリスト教信者の信長近習からだと、もっと有望w

「密室で」「信長と光秀二人」「家康饗応のお料理の献立の打ち合わせ」「どうやら信長が光秀を1度か2度足蹴にしたようだ」


信長「で、この皿は?」
光秀「からあげでございますが・・・」
信長「か・・からあげ・・だと・・」
光秀 汗・汗・汗
信長「鳥なら焼き鳥に決まってんだろーがあああ!」
   ガシっガシっ
光秀「ひい〜〜〜〜っ」

・・・・・・・なんで密室でそんなことやってんねんwww(大阪弁w)

・・・いやあ・・フロイスの記述はリアリティあるなあ・・・これが実は信長が光秀に家康暗殺の話を持ち掛けていたっていう説は、そうかもしんないと思わせるよw

いずれにせよ、この大物二人が密室で「お料理献立の打ち合わせ」な訳は無いでしょうwww。それは建前の嘘ですよねw。・・・・という事は、重要な議題なのは確か。

重要な議題は本気の議題。それで足蹴にされても、重い議題なんだから、蹴られた光秀にしても怨恨説にはつながらない。むしろ、利害関係説が有望でしょうね・・・

あとは「お江戸の読み物出版物」

鉄の扇子で光秀のおでこを叩いたらちょっと血が出たw、とか、今の小学生のイジメ事件じゃないんだから、それじゃ単なるコントでしょw・・・みたいにも思えてしまう。。。。

丹波丹後からすぐ出て行け、代わりに敵領土の奥にある石見を与えようw・・とかさ。んな領土人事をオモチャにしたりとか信長はしねーよなあ・・・・ってイメージですなw。

知行配分の重みを誰よりも良く分かってる信長なんだからさ。お江戸の講談ネタですねw。そもそも明智軍記なんて信憑性アウトなんじゃなかったか。

お江戸の講談は、そんな発想だったでしょうねえ。江戸時代中期の忠臣蔵とかさ、イジワルっぽい感じがさ・・・・・、江戸時代文化なノリですよね。






ノイローゼ説はどうかな・・・ノイローゼならさ、あの優秀な侍大将達が家族の命を捨ててまで付いて来ないだろうなあ・・・

まぁ結局残るは野望説かあ・・・

「土岐は今!、天が下治る五月かな・・・」
「時はいま、天が下なるサツキかな・・・」

・・・・・・足利尊氏が5月に北条平氏に対して軍を旗揚げした。足利源氏の将軍の治世を、天皇の下に、発足させたのと同じように・・・・・・・今!この5月に・・・・・・源氏土岐氏明智氏である明智光秀が、平氏織田信長を倒して、天皇の治める世を作り、将軍になります!

・・・・・・・・って意味ですさw

・・・こんな意味にも取れるような句は偶然じゃ出来ないよな 普通誤解を受けないように自重するってw 偶然なんてありえないよw。これを野望解釈とでも仮に定義してみようか。。。。




「ときは今 あめが下なる 五月かな」という光秀の句にはどのような祈願が込められていたのかということになります。「土岐氏は今、この激しい雨にたたかれているような苦境にある五月である。しかし、月が変わって六月になればこの苦境から脱したい」。これが光秀の祈願であり、謀反の動機です。土岐氏滅亡の危機を光秀は救いたかったのです。

・・・という説は明智憲三郎さん。いかにも光秀らしいと思えるようなw、秀逸な解釈ですw。苦境脱出解釈とでも仮に名づけてみましょうw。
ここではw、ところが、この苦境脱出解釈と野望解釈を一緒にしてw、両方とも野望説という事にしておきましょうw かな〜りアバウトだけどw



・・・・・・というわけで・・・・・・

・・・野望説(=苦境脱出)+朝廷関与説の2点まではほぼ確定だよね。
・・・だけど主体的行動説+朝廷関与説だけじゃあ・・けっきょく軍事的勝算が無いっていう事が、やっぱり説明できないんだよなあ・・・・


やっぱりここがわからないw

明智憲三郎さんや、しばやんの日記さんの説は優れているなあw

僕がゼロから考えてても、ぜんぜんだめだなあww